くずまきの5年

定点観測という意味で、5年でどのように変わったのかを見たくて、前回回ったところを一通り回ることにしました。
バスでは通れなくても、乗用車なら通れる道があって、思ったほど遠く感じません。
前中村町長ご自慢の大きな方の風力発電から見に行きます。発電所のすぐ手前で、”森と風の学校”という看板を発見。土日のみ営業と書いてあるけど、とりあえず写真だけでも撮らせてもらおうと、枝道を入っていきます。
近づくと、人影が、・・・・・。若い女の子が窓ふきをしています。
写真を撮らせてくださいとお願いすると、”理事長がいますので、呼びます。”との事。
NPO法人 岩手子ども環境研究所 という組織の理事長さんでした。少し話をするうちに、お互いだんだん熱くなって、11時から会議だと言っていたのに、10分も超過してお話を聞かせていただきました。
だんだん風が強くなり、今日は、ビュウンビュンプロペラが回っているかと思ったら、なんと半分以上の風車が止まっています? これは、後から町長に嫌みな質問をしてやろう。
小さい方の風力発電は、3つとも元気に回っています。レストハウスで昼食をとったのですが、レストハウス自体が風で飛ばされるのでは?と思うほどの突風です。20m/sは超えているのでは?
昼食を終えてゆっくりと町役場へ。途中のコメリで、陸前高田の店の状況を聞いて見ます。店長だけでなく、もう一人、数ヶ月前に赴任したばかりの社員も犠牲になったそうです。
約束の時間より早かったのですが、町長室に通してもらって、いろいろな意見交換をしました。戦況が終わって落ち着いたら、再度訪問するお約束をさせていただきました。
ほぼ、予定通りの時間で、推移しています。北上で会う先輩に連絡を取り、若干早めに到着すると伝えます。17時30分の約束に8分ほど遅れて到着、先輩もレンタカーやさんを間違えて、到着したばかりだったとか。

いっぱいやりながら、話だけでなく、ipadの使い方まで教えてもらいます。
時間いっぱいまで飲んで、駅へ向かいます。新幹線を乗り継いで青森駅へ。
せっかくだから寝台車に乗ろうと言うことで、青森駅で、寝台券に変えてもらいます。ラッキーにも数枚の残り寝台がありました。

国内で初めて乗る寝台は、ちょっとエキサイティング。古さは否定できないですが、なかなか楽しく一夜を過ごせそうです。

陸前高田を離れる日

貸本を返却しやすいように、貸し出した本の隙間に入れる板を作ったり、支援物資の服をハンガーに吊したり、雑用しながら、食べ歩きながら、時間を過ごします。不要な荷物は送り返し、次回のミッションに向けて、頭を整理します。

週末だけの朝市を常設にする場合のシミュレーションです。結構課題がありますね。2時過ぎには片づけを終え、亀ちゃん(貸本屋のマネージャやー)運転の車で、一関へ送ってもらいます。レンタカーの予約時間より早かったので、一緒に(混浴ではありません)ホテルの日帰り入浴でリラックスして。

レンタカーを借りて、一路北へぶっ飛ばします。葛巻町に宿を取ってあるので、20時までにチェックインの約束なので、大スピードです。
高速道路を被災者は無料で走れるので、南向きのICはどこも長蛇の列。明日、この波に飲まれなければよいのですが。
濃霧の中、くずまき高原牧場に無事到着。さっきふろに入ったばかりなのに、また夕食後入浴します。ここのお風呂もシンプルでよいですね。

明日は、風力発電を見に行くぞ。

土曜の朝市

やはり、準備が進むと、いろいろ不具合が出てきます。
陳列棚も3台ほど組み替えて、実行委員長のご希望に添うようにします。貸本コーナーは、かなりそれらしくなってきました。コーヒーショップは憩いの場のようで、いつも誰かが座っています。

午後には、別便で送った、雑誌棚が届き、いよいよらしくなってきました。絵本を表紙を見せることができるので、小さな子供にも、入ってもらえるかと楽しみです。

総務省主催で、陸前高田の未来を描くインターンシップの学生がミッション(今日、ワタミの会長の前でプレゼンをした)を追えて、最後の晩餐ということで、BBQを行いました。学生時代に、こんな経験をした子達は、きっと、この時点で、線路の切り替えポイントを変えて、大きな未来像を持って進んでいくんだと思います。我が家の子供達にも見せたいな〜。

予感的中

JR四日市駅に到着したら、なんだか雲行きが怪しい。予定していた快速列車の到着時間が近づいても、案内板には、次の普通列車の表示が?
すかさず案内放送が、”落雷事故発生のため、快速列車は約30分遅れて運行しています”
冗談じゃない。新幹線に遅れます。急遽、実家に留め置き予定だった軽トラックを取りに戻り、近鉄四日市駅へ移動。顧問税理士さんの駐車場に車を放り出して、近鉄駅へ駆け込みます。ホームへ上がると同時に、名古屋行き特急が入線。
切符なしで乗り込んで、何とか、新幹線にはぎりぎり間に合います。
相方には、入場券でホームに入ってもらい、新幹線の出発3分前、何とか、ホームで落ち合って、無事出発しました。
陸前高田には、予定時刻よりも早く、6時過ぎに到着。偶然見つけた空車のタクシーを拾って、朝市会場に入ります。

先月ここを離れたときと比べると、かなり、段ボール箱は、減ってきており、スタッフの皆さんの努力の跡をみることができます。四日市と名古屋から出した荷物が到着する前に、場所を空けなければいけません。ひたすら段ボール箱の移動です。床が採石の状態なので、不陸で転倒しないように、アジャスタの下には、すべて板をかませます。

約11時間かかって、何とか、すべての陳列棚を立ち上げました。後は、また明日様子を見ながら修正していきます。こんな大作業、相方と二人では、とてもできはしないのですが、現地のガラス屋さんが集めてくれた、精鋭達のおかげでミッションがクリアできました。感謝。

再び敗北宣言

次のクライアントからも補助金申請の断念という残念なお知らせをいただきました。私が公募要領を隅から隅まで呼んでいなかったことが原因です。

補助金をもらったら、3度も、東京へヒアリングなどに出hojoなければいけないとのこと。それを考えると、70万円足らずの補助金では、足が出る。・・・・・というのが結論です。

中小企業にとって、なんぼ1/3補助金を出すから省エネをしなさいといっても、少ないスタッフの中から、何度も東京に呼び出されるのでは、勘定が合いません。結局国土交通省補助金のそうなのですが、工事総額が500万円くらいの規模にならないと、勘定が合わないということですよね。

もう少しハードルの低い(書類提出はするから)、中身の濃い、制度になってほしいと思います。

さあ、今夜から陸前高田です。
なんだかいやな胸騒ぎがします。無事ミッションを終えらればよいのですが。

敗北宣言

ある私立保育園の省エネ改修計画が、補助金の要件を満たしていないことが判明。低予算で、改修範囲を絞ったために、全体としての省エネ率を満たさなかった。
でも、最初に補助金ありきのコンサルタントに成り下がらなかったことは救いかも。
クライアントの求めるもの。
クライアントが知らないシステム、気づかない本質。
同じ方向を向いて、地球の為に二人三脚で進める仲間。
あえて補助金をもらわずに、クライアントの予算に合わせた改修を選択する勇気。
補助金を取って何ぼのコンサルの世界では、禁断の施術。

網戸越しに入り込む涼風のように、肩ひじ張らない新世代のコンサルを目指します。

開かれたヒストリー

今日のブログ長いです。
最後まで読んだ人で、ビジネスパートナーの人はどんな懸案事項も丸く解決できる人だと思います。後ほど自己申告して下さい。
今日、久々に両親が会社へ来ました。
2年前までオヤジ(84歳)に頼っていた草取りを、私がやらないので、ジャングルに成り果てていました。家内が、私の実家へ言って、お袋(78歳)に”ボケ防止で草取りをして貰おう”と提案したようです。
小雨の中、オヤジは嬉々として1時間少々草取りをしてくれました。

その間、お袋は会社の近くの病院へリハビリに行って、終わり時間が解らないから、我が家の長男が実家へ送り届けることになってました。

オヤジを送って来た時のお袋との2〜3言の会話と、草取り後のオヤジとの会話で、今迄知らなかった我が社の陰のヒストリーが見えてきました。

http://www.oguro.co.jp/~ogr008/home/index.html
Profileをクリックして下さい。

ヒストリーに入る前に、今、共同で商品開発をしているA社さんにお邪魔した時、会長さんと御挨拶させて頂く機会がありました。カミソリのような切れ味の人を予想していたのに、凄く温かい目で私を見つめたので、まさかアッチ系じゃないだろうなと警戒したくらい。
A社さんは、昭和42年創業、ビジネスパートナーである現社長は2代目さんです。A社さんを創業する前、会長さんは、弊社の仕入れ先(U社)に勤めていたそうです。この仕入れ先の会社と我が社との陰のストーリーです。

東京オリンピック開催の頃、ガラス屋はアルミサッシを取扱始めました。会社を再興して10年目、40手前の油の乗りきったオヤジは、大工さんの下請けの建具屋さんのその下請けという地位から、直接大工さんに窓部品として供給できる一次下請けの地位を手に入れました。オヤジは話術も巧で、祖父は、昭和9年新築の四日市市役所の旧庁舎の塔屋にあった市章を硝子で作ったというネームバリューもあり、業績は急拡大したようです。戦後のバラックから真っ当な家に立て替えが進む時代の大工さんには、アルミサッシという新たな部品を取り入れるにあたってのビジネスパートナーとして最適だったのでしょう。
アルミサッシ導入にあたって、最も性能の良い(強度が合ってアルマイト塗膜がしっかりしている)商品を扱っている、取引条件の厳しい桑名市内にある弱小問屋(U社)からの購入を決めたところからストーリーが始まります。
急拡大する業績と、接待交際など無縁だった世界からいきなり土木建設業に足を踏み入れたオヤジは、胃潰瘍になり、170cm70kgの体躯が、あっという間に55kgを切るという状態になりました。
当時、U社には、幹部社員が二人いて、その内一人がA社の創業者です。
U社の社長は、ウチにもう一人の幹部(H氏)を出向させて支援する事を提案、オヤジは、彼に仕事を任せられることを確認して現在の水道局辺りにあった市立病院での治療に専念できました。
当時、昼食は全て賄いで、昼食の善を囲む時の、オヤジを凌ぐ体躯のH氏は、5歳児年長だった私には凄く頼もしい人に映っていた記憶があります。
オヤジの体調が戻ってからも、まとまった物件が入るとH氏は時々応援に来てくれました。H氏が、ウチでいろんなノウハウを(卸の人間が小売りの現場で職場体験をするような)学んで帰るタイミングで、A社が創業します。元々独立を考えていたのか、H氏との力関係に微妙なギクシャクが生まれたのか、原因はわかりませんが、オヤジは健康を取り戻し、A社はスタートを切ったわけです。
その後サッシメーカーは統合が進み、U社から買っていたサッシメーカーもなくなってしまいました。大阪万博の頃には、トステムの前身であるトーヨーサッシがウチの主力商品になっていました。今では当たり前の階段式下レールをトーヨーサッシが開発した時点で、主取扱商品の変更に繋がった事は、経営者の判断としてはごく当然であり、しかしながらサブに回っても、その後のお付き合いはかなり長く続きました。(サッシメーカーが無くなるまで)
ちょうど大阪万博の年、U社で社長とトラブルを起こした社員が、ウチにやってきました。私も小学生の時なので、曖昧な記憶ですが、半年くらい居て元のU社に戻っていきました。
U社の社長が何度もウチに来て、どんな形で彼を戻すか話し合っていた風景は記憶にあります。この時戻っていった彼はその後、桑名市内で独立し、今は息子さんと一緒に経営をされています。(もう代替わりされたかな?)
うがった見方をすれば、U社の仕事を役割分担していたA社の創業者とH氏との二人体制から、トップ判断で相方が出向に行ってしまい、全ての仕事を押し付けられ、その苦難を切り抜けて、H氏が戻ったところで独立されたのかな?と勝手な想像です。
商売が、数字よりも人情を優先していた古き良き時代のストーリーでした。
A社の会長の優しい眼差しは、自分の独立のきっかけとなった小黒硝子の跡継ぎが自分の息子と一緒になって新分野に挑戦している。そのほほえましさを表現した物だったと思われます。

余談ですが、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのTテクノの創業者I氏も、大阪万博から札幌オリンピックの間に、うちの親父に創業(独立)をするという相談?をしていた風景も明確に記憶があります。
当時内風呂の無かった我が家は銭湯通いだったのですが、銭湯が休みの日は、Tテクノ社のM常務の家へ貰い湯をしに行っていました。(M常務は、同友会のI副支部長の従兄弟です)。当時、コンビナートの正社員で、安定した収入があるのに、無茶な挑戦などしないでと言うI氏の奥様の思いが、私のオヤジに独立を思いとどまらせる説得を依頼したのだと思います。
小学校を卒業するかどうかくらいの年齢の私にも、夢を語るI氏にはオーラを感じ、オヤジは独立するリスクをいくつか挙げただけで、そこまでの思い入れがあるなら、もう止められないという話に終わったという記憶があります。つい最近、お袋とこの話をした時、お袋も同じ記憶が明確にあって、テーブルにいろんな資格の証明書を並べ、この能力が、小学校卒という学歴のために活かされない事のジレンマを切に訴えたパワーに圧倒されたとの事でした。

今、A社とはビッグビジネスになる可能性が出てきたので、コンサルの先生には入ってもらって権利関係を整理しようと相談を進めてきたのですが、このストーリーを考えると、もうどうでも良くなって来ました、歴史に裏打ちされた関係に揺るぎなし。

長文拝読ありがとうございました。もう、A社との取り決めはどうでも良くなってきました。とにかく、良い物さえ出来れば、それを世に出せれば、それで満足できそうです。そこからなにがしかのお礼をいただければ十分です。