開かれたヒストリー

今日のブログ長いです。
最後まで読んだ人で、ビジネスパートナーの人はどんな懸案事項も丸く解決できる人だと思います。後ほど自己申告して下さい。
今日、久々に両親が会社へ来ました。
2年前までオヤジ(84歳)に頼っていた草取りを、私がやらないので、ジャングルに成り果てていました。家内が、私の実家へ言って、お袋(78歳)に”ボケ防止で草取りをして貰おう”と提案したようです。
小雨の中、オヤジは嬉々として1時間少々草取りをしてくれました。

その間、お袋は会社の近くの病院へリハビリに行って、終わり時間が解らないから、我が家の長男が実家へ送り届けることになってました。

オヤジを送って来た時のお袋との2〜3言の会話と、草取り後のオヤジとの会話で、今迄知らなかった我が社の陰のヒストリーが見えてきました。

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ヒストリーに入る前に、今、共同で商品開発をしているA社さんにお邪魔した時、会長さんと御挨拶させて頂く機会がありました。カミソリのような切れ味の人を予想していたのに、凄く温かい目で私を見つめたので、まさかアッチ系じゃないだろうなと警戒したくらい。
A社さんは、昭和42年創業、ビジネスパートナーである現社長は2代目さんです。A社さんを創業する前、会長さんは、弊社の仕入れ先(U社)に勤めていたそうです。この仕入れ先の会社と我が社との陰のストーリーです。

東京オリンピック開催の頃、ガラス屋はアルミサッシを取扱始めました。会社を再興して10年目、40手前の油の乗りきったオヤジは、大工さんの下請けの建具屋さんのその下請けという地位から、直接大工さんに窓部品として供給できる一次下請けの地位を手に入れました。オヤジは話術も巧で、祖父は、昭和9年新築の四日市市役所の旧庁舎の塔屋にあった市章を硝子で作ったというネームバリューもあり、業績は急拡大したようです。戦後のバラックから真っ当な家に立て替えが進む時代の大工さんには、アルミサッシという新たな部品を取り入れるにあたってのビジネスパートナーとして最適だったのでしょう。
アルミサッシ導入にあたって、最も性能の良い(強度が合ってアルマイト塗膜がしっかりしている)商品を扱っている、取引条件の厳しい桑名市内にある弱小問屋(U社)からの購入を決めたところからストーリーが始まります。
急拡大する業績と、接待交際など無縁だった世界からいきなり土木建設業に足を踏み入れたオヤジは、胃潰瘍になり、170cm70kgの体躯が、あっという間に55kgを切るという状態になりました。
当時、U社には、幹部社員が二人いて、その内一人がA社の創業者です。
U社の社長は、ウチにもう一人の幹部(H氏)を出向させて支援する事を提案、オヤジは、彼に仕事を任せられることを確認して現在の水道局辺りにあった市立病院での治療に専念できました。
当時、昼食は全て賄いで、昼食の善を囲む時の、オヤジを凌ぐ体躯のH氏は、5歳児年長だった私には凄く頼もしい人に映っていた記憶があります。
オヤジの体調が戻ってからも、まとまった物件が入るとH氏は時々応援に来てくれました。H氏が、ウチでいろんなノウハウを(卸の人間が小売りの現場で職場体験をするような)学んで帰るタイミングで、A社が創業します。元々独立を考えていたのか、H氏との力関係に微妙なギクシャクが生まれたのか、原因はわかりませんが、オヤジは健康を取り戻し、A社はスタートを切ったわけです。
その後サッシメーカーは統合が進み、U社から買っていたサッシメーカーもなくなってしまいました。大阪万博の頃には、トステムの前身であるトーヨーサッシがウチの主力商品になっていました。今では当たり前の階段式下レールをトーヨーサッシが開発した時点で、主取扱商品の変更に繋がった事は、経営者の判断としてはごく当然であり、しかしながらサブに回っても、その後のお付き合いはかなり長く続きました。(サッシメーカーが無くなるまで)
ちょうど大阪万博の年、U社で社長とトラブルを起こした社員が、ウチにやってきました。私も小学生の時なので、曖昧な記憶ですが、半年くらい居て元のU社に戻っていきました。
U社の社長が何度もウチに来て、どんな形で彼を戻すか話し合っていた風景は記憶にあります。この時戻っていった彼はその後、桑名市内で独立し、今は息子さんと一緒に経営をされています。(もう代替わりされたかな?)
うがった見方をすれば、U社の仕事を役割分担していたA社の創業者とH氏との二人体制から、トップ判断で相方が出向に行ってしまい、全ての仕事を押し付けられ、その苦難を切り抜けて、H氏が戻ったところで独立されたのかな?と勝手な想像です。
商売が、数字よりも人情を優先していた古き良き時代のストーリーでした。
A社の会長の優しい眼差しは、自分の独立のきっかけとなった小黒硝子の跡継ぎが自分の息子と一緒になって新分野に挑戦している。そのほほえましさを表現した物だったと思われます。

余談ですが、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのTテクノの創業者I氏も、大阪万博から札幌オリンピックの間に、うちの親父に創業(独立)をするという相談?をしていた風景も明確に記憶があります。
当時内風呂の無かった我が家は銭湯通いだったのですが、銭湯が休みの日は、Tテクノ社のM常務の家へ貰い湯をしに行っていました。(M常務は、同友会のI副支部長の従兄弟です)。当時、コンビナートの正社員で、安定した収入があるのに、無茶な挑戦などしないでと言うI氏の奥様の思いが、私のオヤジに独立を思いとどまらせる説得を依頼したのだと思います。
小学校を卒業するかどうかくらいの年齢の私にも、夢を語るI氏にはオーラを感じ、オヤジは独立するリスクをいくつか挙げただけで、そこまでの思い入れがあるなら、もう止められないという話に終わったという記憶があります。つい最近、お袋とこの話をした時、お袋も同じ記憶が明確にあって、テーブルにいろんな資格の証明書を並べ、この能力が、小学校卒という学歴のために活かされない事のジレンマを切に訴えたパワーに圧倒されたとの事でした。

今、A社とはビッグビジネスになる可能性が出てきたので、コンサルの先生には入ってもらって権利関係を整理しようと相談を進めてきたのですが、このストーリーを考えると、もうどうでも良くなって来ました、歴史に裏打ちされた関係に揺るぎなし。

長文拝読ありがとうございました。もう、A社との取り決めはどうでも良くなってきました。とにかく、良い物さえ出来れば、それを世に出せれば、それで満足できそうです。そこからなにがしかのお礼をいただければ十分です。