20年前の今日、私は何も知らされなかった。

その日、1986年4月26日土曜日スイスのダボス近郊にあるヤコブスホーンという山頂スキー場で、1日スキーをして遊んでいました。春スキーシーズンも終わりで、翌日までで春の営業が終わるという日。スキーヤーは少なく、広いゲレンデをゆったりと滑って、転んで、大空を見上げて。やたらと戦闘機が飛んでいくな〜と眺めた。
8日後(5月4日)オーストリアザルツブルグで、”サウンド オブ ミュージック”ツアーというのに参加し、そこで、乗り合わせたシンガポールの教育省のお姉さんから大変な話を聞く。”ソビエトで、広島や長崎のような大変なことが起きている。死の灰が世界中に飛び散り、やがて日本にも到達するだろう。”
その6日後(5月10日)3月にイギリスで出会ったドイツ人青年の家に押しかける。(彼は片腕が全く使えないにも拘わらず、バックパックを背負って一人旅をしていた。ロンドンからウォルバーハンプトンへ向かう列車の中で初めて出会い、その5日後にインバネスからスカイ島へ向かう列車で偶然に再会。その後ロンドンまで一緒に旅をしました。)ドイツに行ったら遊びに行く約束だったのに、手紙の返事を貰えなくて直接乗り込んだのでした。(なんと乱暴な)
この日に訪問することを日本に伝えてあったので、新聞記事の切り抜きの入った母からの手紙が届いていました。そこで初めてチェルノブイリの報道を目にします。事故が起きて2週間。2〜3日前にアムステルダムでずぶ濡れになった記憶もあります。この時点では、ソビエト政府も公式のコメントをしていなかったようで、情報が余り私には伝わってこなかった。
1晩泊めてもらって、翌日から北欧へ旅するにあたって、ドイツ人の彼から注意を受けました。
*生野菜を食べないこと。
*牛乳を飲まないこと。
死の灰をかぶってしまっているからだそうです。そこまで言うのだからかなり大変なことのようだとは思えました。・・・続きは明日書きます。